as it is

そのままで

イコールの先

恋人欲しい?という質問をされる度に、欲しくて作るものなのか?という疑問が頭の中を駆け巡っていつも曖昧な返事をしてしまう。頭の固い人間なのかそれとも漫画や小説の読みすぎなのかは知らないが、恋をするときはいつも偶然だと思っていて恋をするというよりは恋に落ちるという日本語の方がしっくりくる。

きっと自分の中では、こんな自分でもいずれ結婚し子を持ち一般的な「家族」の姿になるだろうという謎の余裕があるんだと思う。次々と結婚していく同世代を横目に必死になる姿を見せまいと自己制御していることには気付いている。謎の余裕を持っていないと嫉妬で狂ってしまいそうになるからだ。結婚はいい。愛する人と信頼関係を築き、安心や享楽を分かち合い、苦境を共にし、年月を重ねていけるのだ。でもこれは自分の生きてきた道の中で出会った赤の他人と、なのだ。すごいと思う。偶然で運命だ。そんなことがこの世界中で起きているのがにわかに信じ難い。本当なのか?皆、心から愛する人に出会い、この先死ぬまで苦楽を共にしたいと思える人と出会えたのか?偶然で運命的に恋に落ち、信頼関係を築き上げてきたのか?と思ってしまう。でも実際に日本では三組に一組離婚しているのが現状というし、離婚していなくても仲睦まじいと言えない夫婦も山程いることだろう。他人と意見や価値観を擦り合わせていくというのは本当に難しいと思う。誰一人同じ人生を歩むことの出来ないこの世の中で、見てる世界も生きてきた場所も育った感覚も全て違うのに、同じ家に住み自分のプライベートな時間を費やし、生活を共にしなければならないのだ。各々の家族ルールもさることながら金銭感覚や清潔感、感情のコントロールまでもお互いに把握しあっていく必要がある。赤の他人とだ。すごいことを皆当たり前かのようにこなしていて、受け入れられないまま結婚適齢期になる予感がしている。そして婚期を逃したとかどうとか言われてしまうのだろうか。それでも信頼し尊敬できない人と結婚するよりは一人で生きていった方がマシだと思う。恋人も同等だ。自分一人の世界ではないからこそ焦らずに慎重に生きていくべきなのではないかと思う。

恋人の話で思い出したことをもう一つ。プロポーズについて。プロポーズを男からするという風潮はいつになったら無くなるのだろうか?今の社会は親たちの年代から比べれば大分男女平等になりジェンダーレス、LGBTQといった言葉も出てき始め、性別に関しての関心度が幾分良くなったと思う。それでもプロポーズは男性からという風潮に疑問を持たれるところを見たことがない。確かに女性は体質上、妊娠し出産しなければならないが、基本的にはそれ以外男性と同じなのだ。給料も立場も同等で、結婚するとなれば男性も女性も関係なくお互いに固い決意が必要なのは変わりない。それでも街は婚約指輪となれば女性向けのキラキラした梱包のものや、男性の入りにくそうな店舗ばかりで取り扱っていたり、プロポーズのシーンとなれば男性側が膝まずき指輪を渡すシーンばかりだったりするのだ。というか何故指輪なのか?という疑問さえ湧く。(これは遥か昔、約束を果たす誓いの印としてリングを指にはめる習慣があったらしく、リングの円の形に永遠に途切れないという意味が込められていたそう。)これはあまり女性とは関係なさそうだったので良しとする。が、やはり男性からというところに社会格差を未だ感じられずにはいられない。女性は家事をするとか男性は外で仕事をしなくてはいけないなんてことはない。そもそも同じ人間で出産後、女性の体調が戻り次第すぐに復帰できるような社会体制が必要だし男性の出産後と子育てに対する意識とそれに協力しやすい社会変化も必要だ。前職場では男性も育休を取れるシステムはあったものの直属の上司が目の前で堂々と否定するなど環境が劣悪だった。妊娠と出産以外は一保護者として同等に子供の成長を見守るべきであり、どちらが長い時間接するとかどちらが得意とかはないのだ。女性から告白したら肉食女子だと言われ、恋愛に興味がなければ草食男子と言われるこの社会はもっと人間らしく雑食な世界になっていくべきだと思う。簡単には変わらない。でも変えようと発信し当たり前と言われることに対し疑問を持つことで誰かの悩みや不満がなくなる日がくればいいなと思う。同性婚も認められていない現在だが、認めない意味がわからない!と一蹴し戦闘体制になるのではなく、どうしたらお互いいい形で共存できるのか、法律の肯否によって持たらされるメリットデメリットは何なのか、満場一致というのはかなり不可能に近いが関心を持っている人の半数以上が納得できる形を取った未来が作れればいいなと思う。

固いことを話すとフェミニストだと言われてしまうが、こういう考えをより多くの人が常識として考えられるようになるまで男女平等への道のりは長い。まずは常識でなくてもいいから、こういう考えがあるということを知った上で自分の生き方を選び、自分と異なった選択や考えを持った人達を肯定できるところから始めていきたい。男性も女性も平等で誰もが自由に生きて法律に縛られるのではなく守られていると感じられるような世界がいち早く訪れますように。自分の常識はただの、自分が生きてきた世界での大多数の意見であることを忘れないように。

 

15102019

 

ざんわ

 

 

向こう側

小難しいことを考える間もないほど仕事に追われていたので自我を取り戻しに来た。仕事に時間と体力を取られるの、嫌すぎる。だからきっと今の仕事は合ってない。

 

根深く蝕むSNSに毎回振り回されていて自分自身打ち勝てないことが多くなってしまった。SNSなんて言葉ではなくて「インターネット」として世で説明されていた頃(当時はまだ学生)インターネットは、『知りたい世界の知らない情報を知るための道具』だった。家族や友達や近所、雑誌でもテレビでも取り上げられないようなものを、たった一人、自分自身のために掘り出せる道具だった。電源を入れて真っ黒の画面が光るあの瞬間さえ好奇心を駆り立てられたし、知らない世界を自分の手で見つけるということに恐怖もあった。検索ワードを変えて何度も似たような単語を違う言い回しにして打ち込んだり、似たようなサイトに飛ぶことができたらそこから更に違うサイトへジャンプしてみたり、その手探りで時間をかけて探すことの方が意味があるのではないかと思うほどのめり込んでいた。そして見つけた情報は紙に書き起こすほど価値のあるものだったし、自分たった一人ではないということを知り世界が一気に広くなり異常に心躍るものだった。

インターネットはそれが本来の形なのではないかと常々思う。自分の知りたいことだけを知る。それで十分だ。知りたくもないことを知る必要など微塵もない。でも今は違う。今のインターネットはSNSなのだ。社会的な構造が出来上がっている。確かに、遠く離れた家族や友人といつ何時も連絡が取れ顔を見ながら会話したり、社会的ハンデのある方達の買い物がより簡単になったり、と良い点ももちろんたくさんある。というかそういうために発達したものだと思っていた。でもスマートフォンが普及した現代において、若者が巧みに使いこなし出来上がったのが今の社会だと思う。社会を作り上げるのはいつだって若者だ。好きなことを簡単に発信できるというのは良いことだと思う。少し前までは好きな世界と繋がることはできても発信するとなるとやはり安全面やハードルの高さが気になった。しかし、その簡易さが仇となり情報価値の低落や個人情報保護の希薄化が目に見えている。問題になっているかどうかは個人差がある。うまく使えばビジネスとして成立するし、なんとも言えないのだ。だがその本質を見極めずに現代の社会の流れとして受け入れ、取り込んでいる人が大多数な気がしてならない。ツイッターやインスタグラム、フェイスブックもそうだと思うがこのあたりのアプリを持っていない人というのはなかなか稀なのではないかと思うほど使用人口が多くなっていて、それが現在と混合してしまっている。

簡潔にいうと、今のインターネットは『知っている世界の知らなくても良い情報を知ってしまう道具』だと思う。インターネットが現代の社会と密接になりすぎていて境目がなくなってしまった。ただ自分の可視範囲が広がっただけ。浅く広く濁った海が目の前にある。現実の世界であれば居心地が悪くなったときに遠ざかったり、目を瞑ったり、関係を切ったり、逃げたり、どうにかしてその場を変えることができるが、新たな情報を求めて探しに行った先が乱暴で雑多なものだったらもうそれを使うのをやめるしかない。こんなに悲しいことが起こりうるなんて想像もしていなかった。が、保身のためにはそれが一番だと思う。

時間は有限で、体感できないもの以外は多く知る必要はないと思っている。自分が使える限りの五感で経験するだけで人生は事足りると思う。インターネットは自分が掘りたい井戸の情報だけを教えてくれるものであって、あれもこれも!と欲張って使うものではないのだ。自分で考え、行動し、できることだけをやっていく。自分だけの生活をしていく。無料で得た知識など正直意味をなさないと思うのだ。安いTシャツがすぐボロボロになってしまうよりは、自分のお気に入りのデザインで生地のいいものを貯金して買い長く着る方がよっぽど良いと思うのだ。質を求めるのならスピードを求めてはならない。自分がより良い人生を送るためには、簡単ですぐに手に入るものに飛びつくようではいけないと思う。小さな画面よりも風や光、色、音、そういうものをもっと感じられる、四季折々の木々や旬の食べ物を喜び、満たされる人でありたい。

そのためには孤独や嫉妬などの自身の中での陰湿な感情を切り替える必要がある。一人でいるときは孤独なのではなく、自身を高める絶好のチャンスであるし、嫉妬する暇があるならさっさと自分のやりたいことを行動に移せば良い。わずかな考えの違いかもしれないが、今の自分にはこの切り替えとインターネットの本質を言い聞かせる必要がある。毎日ヌルヌルと過ごしていると物事の本質や自分と対峙することを忘れてしまうが、何事も本質を捉え向き合い続けるべきだと思う。それが例え、小さな画面の向こうの話だったとしても。

 

 

02102019

 

ざんわ

 

 

サクセスへのアクセス

成功が幸せと言われる理由について考えていた。成功とは、地位や名声を得ることを指す。社会に出たとき一般的に幸せと言われるような上司達が、地位も名声を得てもなお勤務中に「嫌だよなあ、俺だってやめたいよ」と呟いていたのが忘れられない。なぜなのか。地位があり、部下を従え現状名声を得ているのだ。賞与もきっとそれなりによく、家族も持ち、立派な家や車を持ちながら、それでも血眼でタバコをふかしたりするのだ。

中学時代に住んでいた地域は比較的円満な家庭が多い平凡な空気が流れる田舎で、高校受験を控えるクラスメイトは次々に月謝の高い塾に通い出していた。こんなことを言うのは違うのかもしれないが、高校・大学へのステップは家庭環境が背景にあると思う。正直、自分より成績の芳しくない友達が塾に通い出したことでぐんぐんと成績を伸ばし、そのまま滑り止めの私立を2、3校受け、のちに学歴社会で羽を伸ばしているのは言うまでもない。これは妬みで、自分自身の努力が足りなかったことであるし、いつまで引きずっているんだと呆れる。でも、そういう人たちは安定した生活を求め大企業に入ったと話したりする。私の上司も例外ではない。恵まれた環境で育ち、安定を求め、成功しているのだ。果たしてそれは本当に「幸せ」なのか?もちろんこの条件がすべての人に当てはまるわけではないのだ(その他のクラスメイトは大学進学後自分のやりたいことに手を伸ばし充実した生活を送っているであろう子もいる)が、あまりにも無残な将来とは言えないだろうか?この断片的な視点かつ限られた知人の中での経験談など語る資格はないかもしれないが、「成功」を求めた続けた結果、飲み会やタバコに消えていくような、そんな人生はそもそも違うのではないか?ということだ。無論、他人の人生なので正直どうでもいいのかもしれない。でも、そうやって「成功」の枠に捉われた人生を幸せと呼ぶのは違う気がしている。

好きなことを仕事にしよう!という社会現象で波が立っている。ここ2、3年で立派に確立したユーチューバーという職業はまさに「好きを仕事に」という代名詞だと思う。私自身も一つのエンターテイメントコンテンツとして視聴が日常の一環になっている。が、正直な感想、対人ストレスのない作業と広告収入に食いついた人達が多すぎる。もうメディアとして確立されすぎていて数年前まで一般人だったのにいきなりファンがつき、何をしても許されるような場所にもなりつつある。だから、視聴者数の多いユーチューバー同士がコラボし会話しているだけで動画として一つ成り立ってしまい、それが収入となるのだ。根本にあるのは、人を笑顔にしたい、とか動画を自主制作したい、とか様々だと思うが、会話をしているだけでこれが好きなんです!と主張されても受け入れ難くなってしまう。その動画が10分にも及べば、何万人もの10分間を奪っていることになる。果たしてそれを視聴した人が元気付けられた!となると確証を持ってあげているのだろうか?あまりに残念な内容だったとき無意識に『これがこの人たちの仕事なのか…』と羨んだ気持ちが見え隠れする。仕組みさえわかってしまえばいくらでも手を抜ける仕事な気がしてならないのだ。それはもう好きなことを仕事にしているとは到底言えない。でも登録者数が多ければ多いほど成功したと言われ収入も会社員よりはるかに多く受け取っている。確かに彼らは幸せだと思う。私の上司や学歴にこだわったクラスメイトよりは。

長々と小難しくよくわからないことを書いてきたが、成功が幸せと呼ばれる理由は社会的地位やお金を儲け名声を得ることが本質ではないのではないか?ということだ。好きなことを仕事にするというのは難しい。いくら気楽に続けられるものだとしても、人である限り、慣れが生じ飽きが来る。それに耐えうるようなまっすぐで純粋な「好き」に対する強い精神が必要だ。その環境において成功することが本当の成功だと思う。自分が不満や愚痴をできる限り言わなくて済むような環境に身を置きながら生活し、一日の4分の1を占める仕事の時間を充実したものにする。好きでやっているから、と言い切れるような、そういう仕事を手にすることが一番の成功なのではないか。

そんなことはわかっている。と書きながら思う。でも、これが案外難しいものではないだろうか。そもそも時間をかけてやりたいことは何か?それがお金に換算できるのか?好きなことが仕事として成り立つのか?悩みも不安も尽きない。でも、それに負けてはいけないのだと思う。そこに向き合い続ける必要がある。やりたいことを探し続け、仕事にする方法を模索し続ける。世間一般という言葉から一度離れる。自分の成功と幸せを何度も問い続け、それを形にする必要がある。そこを乗り越えない限り、なんらかの型にはまり続け、永遠にその中であがき続けなければならないのではないか。そんな時間は本当にもったいないな、と思う。

とは言え現実的に見ればやりたいことがあっても資金が足りなかったり、仕事や住む場所や頼る場所や日々の生活が困難だったり、様々な障害が目の前に立ちはだかる。意志だけではどうにもならないのが現実だ。でもこの悩みや不安から逃げず、向き合い続けることはできると思うのだ。この時間は苦しく、苦しんでいる間は誰も助けてくれない。だが、負けてはいけないのだ。成功したいのなら、本当に幸せな日々を送りたいのなら自分自身に負けず戦い続けなければならないのだ。好きなことを仕事にしている人たちは、好きでやっていたらこうなった、という人もいるかもしれない。それはやり続けることができる=本当に好きだというブレない精神があるからなのだ。世間の波に飲まれないくらいの好きという気持ちは最後に自分を救うことになる。

成功というのは一概にもこれだ、という風には言い切れない。高学歴で会社員になり効率よく稼ぐことも、株などの投資で一切体力を使わずに勝負することも、ネットの社会で生き抜くことも、政治家になることも、宇宙飛行士になることも、はたまた主婦・主夫になることも、親になることや独身でい続けることも、パートやアルバイトで生活することも、どれも成功ではあるのだ。それでも全てに共通していてほしいのは、好きが根底にあるということだ。自分がなりたくてなった、自分が望んでいた、自分の夢だった、誰にも負けないくらいの自信がある、でもなんでもいい。自分の意思で選択し、確立させている。本当に細かいことかもしれないが、ここまでたどり着くには日々の生活の時間割や衣服、食事、持ち物、そういうものまで関わってくるのではないかと思う。好きを根底に全てを選択していくこと。それが成功に繋がる。そう願っている。

 

 

28082019

 

ざんわ

 

 

 

 

生きている意味がわからなくなった話

生きてる意味がわからなくなった話。(死について触れています。不快になる方は読まないでください。)

 

なぜ死んではダメなのだろうと考えた。死んだら終わりというけれど、何がどうダメなのか。自分の人生なのに、誰一人として同じ人生を歩んできている人はいないのに、なぜ、どうして人は皆「生」に固執しこの苦しい世界を生き続けているのだろうと思った。こんなことを考えたのは平日でも夜中でもなく、日曜日の真昼間。しかも暗い部屋の中で独りだったわけではなく、5・6人と一緒に働いていながら明るい光のもとで。突然、人はいずれ死ぬのになんのために努力しなんのために生きているのかよくわからなくなり涙が溢れてしまった。数十年生きたら、今まで積み重ねてきたものや努力してきたものは物として残さない限り消えてしまう。それなのになぜ人は日々をこなし苦しみながらも喜びを見出し生きているのだろうと思った。

暇なのだと思う。毎日忙しく仕事に明け暮れたり、友達と騒いでいたり、何かに夢中になるものがあればこんなこと思う暇なんてないのだ。自分と向き合うだけの時間がポツリポツリと増えていった結果、極論でごちゃごちゃした感情が生まれてきたのだろう。書いてはいけないと百も承知で書かせてもらうが、もう、今回の人生はこれでいいやと思った。もう今回はこれでおしまい。やりたいこともやったしこれ以上頑張る意味もない。自分が少し努力したところで自分しか変わらないし変わりたいとも思わない。自分が死んでも悲しむ人なんていないし、悲しむ人がいたとしても時間が解決する。現にそういう人たちを見てきたし自分がいなくなってもそうなるだろうと思う。昨晩寝る前にどうしたら楽に、苦しまずに死ねるか検索した。本当に便利な時代だなと思いながら、一番上にホットラインのサイトが出てきたのを見てこういう苦しみを持った人はたくさんいることを知る。自殺をするということは自分で自分の息の根をとめるということだからやはりコントロールしたいのだろう。首吊り自殺が一番主流で簡単な方法だと知る。ひも状のもの一つで座っていてもできるらしい。首の脱臼をすれば一瞬で気を失い、10分見つけられなければそのまま死に至るそうだ。簡単でいつでも死ねるなと思ってこれだったら今すぐにでもできるなと考えた。自分が死んだら誰が一番最初に見つけてその後どうなるのか、離れた家族はどれくらいできてくれるのかとか、死後の魂はちゃんとこの世に存在するのかとか、自己中心的なことばかり考えた。でも正直すぐに行動しなかったのは心のどこかで死んではいけないということがわかっていたのだと思う。でもその時はまだ死んではいけないことがどうダメなのかわからなくて、他のサイトを読み漁る。自殺した方のご家族やその近親者等、ご遺族の方が書き込めるサイトがあった。驚いたのは悲しみや寂しさの他に怒りに変わってしまっている人のメッセージでお前だけ楽になっていいよな!と。他にも、ご家族の一人がなくなってその後あとを追ってなくなる方が絶えず、残されてしまった方もいた。どうしたらいいのかわからない。何をしていいのかわからないし、何もできない。生きる意味がわからない。そんなメッセージばかり見た。それを見て私は死をどこか他人事だと思っていたことに気づく。正しく理解していなかった。死ぬということは自分の人生が終わり、この世に戻って来れないというだけではない。死を意識していなかった他人の人生まで奪ってしまうということだった。悲しむ人がいないなんて嘘だ。人はどうやったって一人では生きられない。生まれる時も死ぬ時も一人というがそんなわけはない。この世に生を受けたときからもう他人によって生かされている。確かに同タイミングで死の世界に行くことはほぼ難しいが生きてきたという事実がある限り決して一人ではない。自分を知る時はいつだって他人が関係している。他者の存在で自分の存在が浮き彫りになるのだ。自分一人しかいなかったら自分を知ることはできない。自分がいなくなることで成り立たなくなる世界が絶対にあって、自分がもういいやと思う以上の感情が自分のせいで湧き上がってしまうこともある。悲しみや苦しみ以上のものがこの世には存在する。そういう感情を持つと人は賢すぎるが故に壊れてしまうのだ。大切に思うものが、幸いにも自分にはあってそういう人たちの時間を奪ってしまいたくないと思えた。だから死んではいけないと、そう思うことができた。

若い世代の人たちが死に至ってしまう一つの原因としていじめが挙げられていた。自分の存在意義の不明確さに嘆いたり、大切にしたりされたりそういう世界があることを知らない世代なのかなと予測する。自分がいなくなったところで別にどうにもならない。そう思ってしまうのかな、と昨日の自分は思った。過去にそう思ったことも実際にある。今は、今はそうかもしれない。自分がいなくなったところで悲しむ人や変わることなんてないと思うかもしれない。でも、未来は違う。自分がいることでしか成り立たない世界があって自分がいなくなることで生きられなくなってしまう人もいる。そういう未来がある。だからそのために生きた方がいい。今は苦しくて正直もうどうでもいいと思うことばかりで、勇気を出して助けを求めることもできずあがき苦しんでいるかもしれないが、そんな自分でも必要とされている。未来が必要としているのだ。生きたくて生きてるわけじゃないと思っていたが、生きる意味があってここにいるのだと思う。生きたいわけじゃない、生まれてきたかったわけじゃない、そう思うこともある。親の欲やステータスの道具として存在していると思っていたらそれは間違いで、自分の意志云々の前にこの世界に必要とされてこの世に存在していることを忘れてはならないと思った。

以前にも書いたが、人生は運命ゲームである。運命ゲームでかつ不平等なクソゲーだ。くだらなくて意味のわからない世界だと思う。お金や地位があったら幸せなのか、なんのために生きるのかなんて考えたことのないような人たちが犇めき合っている。でも今回の人生はそうなのだ。そういう世界に意味があって放り込まれたのだ。だからもうそこについて考えるのはやめた方がいいと思った。仕方がないのだ。変えようと思っても変わらない。変えられるのは自分自身だけで生きてることについて向き合うよりも、とりあえず死ぬのはやめておこうと思うだけでいい。意味があって存在している。だから生きているだけでいい。存在していることに意味がある。絶対にそうなのだ。

生きていくことは難しい。難しく、苦しい。でも生き続けることに意味があるのだ。どうでもよくなって他者と関わらないと生きていけないようなもどかしさに苦しむかもしれないが、死んだところで一人にはなれない。今の苦しみがいずれ楽しさや喜びに変わる時がくる。この世界は広い。人生数十年じゃ何も知り得ないほど、溢れている。今の世界がどうでもよくなったら他の世界にいける。死ぬということが悪なのではないが、死ぬという行動が他人の人生を壊してしまう危惧を招くことになり、存在が消滅したことで成し得ないサイクルが出来上がってしまうのだ。楽観的に生きていくことは本当に難しいが、悲観的になるのは意思を持って止めることができる。今の世界以外にも楽しいことはあってどうでもよくなったら一旦離れてみる。人はいずれ死ぬのだから、早まらなくていいのだ。何もかもめんどくさくなることもあるかもしれないが、そういうときは他者に思い切り頼っていいのだ。くだらなく思えるこの世界かもしれないが、くだらないと思えるほど自分はその世界に生きているのだ。生きることの難しさは解決できない。解決策なんてない。でも人生に答えなんて必要ない。大丈夫、全てなんとかなるのだ。生きていたらいいことが起きてどうでもいいと思っていたことを忘れてしまうかもしれない。だから生きるのだ。

難しく、孤独で、寂しさや暗さから逃れられないとき、自分は暗闇にいると理解している時点で光を知っている。光を知っていたらそこに向かって進むだけなのだ。自分には存在する意味がある。明日も生きて、明後日も生きる。十分なのだ。

生きているだけで、もうそれだけで。

 

 

19082019

 

ざんわ

 

 

 

もしも

バンドを組む

お笑いコンビを組む

グループアイドルになる

 

なんでもいいけど、自分が所属する団体やコンビの名前って、誰しも一度考えたことありませんか?名前ってなんかワクワクするんですよね。名前をつけた瞬間に自分の所有物になるあの特別な感じ。気持ち悪いと思いますが、昔恋人がいたときに苗字+自分がつけたい名前を考えて2時間くらい暇つぶししたこともあります。男か女か、それで決めるのもいいし、男女どっちとも取れる名前も魅力的なんですよね、今はネットが発達して名前診断なるものができるサイトがあるらしいですね。苗字と名前を入れて運勢を占ってくれるそうです。有名人の苗字+自分の名前、とか将来の子供の名前、とか画数や仕事運、金運なんかもわかるそうです。未来のことってわからないからいいのにな〜なんて思うけど、いいことばかりは信じたくなるものです。

話が逸れました。コンビの名前、考えたことありませんか?昔テレビで、芸人さんの生い立ちドキュメンタリーのようなコーナーで、新しくコンビを組むとき喫茶店や居酒屋に集合して好きなワードやアイデアを持ち寄って話し合うみたいな場面があって、どう省略されるか(ブラマヨ(ブラックマヨネーズさん)、ネプ(ネプチューンさん)等)とかどういう意味合いを持たせるか、とか考えていてそれはそれは楽しそうだったんです。大人になると固くも柔らかくも色んな単語を知ることになって、もちろん幼少期よりは単語帳のページは増えてくるわけです。カッコつけた名前にもできるし、英文字表記なんてのもできるし、意味合いをたくさん含んだ造語だってできちゃうわけですよ。でもコンビ名って一生付きまとうし、看板じゃないですか。若さゆえの〜みたいなダサい名前には絶対したくないですよね。ヨボヨボになったときに〇〇ボーイズみたいなのを想像して…まあそれはそれでなんかいいのかもしれません。が、やっぱり唯一無二の素敵な名前にしたい!欲を言えばロゴなんかもカッコ良くしたい!そんな気持ちになるわけです。でも世の中にはもう様々な、それはもう様々なコンビが爆誕していていい名前なんてとっくの昔にsoldout。絞れど絞れどその枠は埋まってる。難しいな〜って思いました。で、令和を生きる我々の世代はやはり造語が一番手っ取り早くてかっこ良くなりそう。そうなったら、うちらの時代インターネットじゃね?ということになるわけです。ならないですか?ならなくても検索できる時代ってそれなりに便利な時代だと思いませんか?身近になりすぎてこれが便利なことも忘れてしまいそうなほどです。

一番やりやすいのは、自分の好きなことや表したい言葉を他国の言葉に翻訳する。英語表記は一番簡単でいい例ですが、ドイツ語とかスペイン語とか、英語に似てるしスペルもなんとなくわかるけど聞いたことはない、みたいなそういう線を辿ると人の目に付きやすいのかしら…とか考えます。ほら、もう楽しくないですか?でも難しすぎたり表記が長くなるのはダメなんですよ。覚えにくいし、見た感じちょっとダサい。だからここでの基準は自分の感覚を頼りにしていいと思います。センスが全て。でもここでいつも思うのが、同じコンビやグループでもその族種によってやはり少し色が違うなと思います。芸人さんだったらあんまり英文字は使わずに名前からとったり漢字が入っていたり、シンプルかつ覚えやすいものが多い気がします。歌手やバンドの名前になると、個人の名前を入れてることってほぼない気がします。しかも大体英文字やカタカナ、かつちょっとかっこいい!って思わせて略しても言いやすいような、そんな洒落っ気づいたものばかり。(個人の見解です)どっちも好きです。忖度なしに。まずそこでどっちがいいかな、って考えるんです。ああ〜自分の名前は好きじゃないから芸名つけたとして…とか、好きな食べ物もいいな〜とか、グッズにしたときに英文字がずらっと並んでたり、英文字なのにひらがな表記にしたら可愛いじゃん!てなったり、、(以下省略)もう無限です。私の場合は、とにかくこの楽しくて最高に暇が潰せる時間を最大限に利用して自分の納得行く名前をたくさん考えます。いくつか候補が上がっていた段階で、これは芸人用、こっちはバンド用、こっちはユーチューバー用、、とか振り分けていくわけです。こんなに意味のなさない暇つぶしもあるもんだな、って感心します。こんな文を書いてる時間があったら掃除機かけろ、って思います。でもこういうくだらないことをしてる時間が楽しいんですよね。ブツみたいにやめられません。やったことないですが。ブツで思い出したんですけど、チョコとかクッキーって、あれ、入ってないんですか?食べだしたら止まらないし、少し食べて封したらもっと食べたい衝動に駆られるし食べたら快感だし。合法なのが信じられません。ニキビという副作用にいつもやられてますが、それでもまた味わいたいと思わせてくる、あいつらはとんでもねえ輩です。

また話が逸れました。やっと本題に入ります。私が最近考えたコンビ名、2つ、いきなり発表します。それは「super supper」「best before」。スーパーサパーは芸人で、ベストビフォーはバンド名です。いや、どっちがどっちでもいいんです実際は。なぜこの2つをこんな意味のわからない長い前振りを経て発表したかというと、どう考えてもロゴが可愛くなると確信していたからです。スーパーサパー(略してスパサパ)はこの似てるスペル。直訳すると超夕飯です。意味わからないですよね。でももしこれが芸人だったら超美味しい夜食食べてるときにコンビ組んで初心を忘れないために、とか超美味しい夕飯と同じくらいの幸せを届けたいとか、なんとでも言えます。これがバンドだったら超夜食って意味をなんかもっとこねくり回してツアー名にしたりとか夜食を食べるメンツがいつもこいつらでした、とかなんかそれっぽいエモい理由がくっついてきそうです。ベストビフォー(略してベスビフォかBB)は直訳すると賞味期限。日本で賞味期限っていつでもどこでもほぼ年中無休で目にするし、あんまりかっこいい言葉じゃない立ち位置な感覚があるのですが英語にした途端、背筋がシャキッと伸びたようなそんな感覚がありました。我ながら日本人らしいです。もしバンド名だとすれば、俺たちには賞味期限なんてない、みたいな臭い理由を語って欲しいし、芸人だとしたら賞味期限はそれまでが美味しい証拠だから漫才を見にくるのを楽しみにしてくれるようなそんなコンビになりたい、、みたいなそんな理由をぜひ朝のニュースで引っ張りだこになったら照れながら語って欲しいです。BBって書いたタオルとか缶バッチとかシンプルなのに一目見て同士と分かち合える…そんな交友関係のきっかけになるグッズが今にも見えてきそうです。ああ、なんて楽しいんだ。。そんなグループ1ミリも存在していないのに。

まあ、こんな感じで今回はたまたま2つとも英文字表記でしたがいつも割と本気になって脳内で製作しています。アドレナリン、出てるんだろうな…一番勿体無いアドレナリンの使い方かもしれない。無駄にしないためにバンド組むか?夜食食べる仲間も賞味期限語れる友達もいませんが。

ここで語ってしまったので新しい暇つぶし、考えよう。

次は何にしようかな〜

 

 

04082019

 

ざんわ

 

6700K(ケルビン)

雨の中を歩き回るのはお世辞にも好きとは言えない。靴が濡れるを越えて浸り靴下はビチョビチョになるし、こんなにもテクノロジーが発展した現代で傘をさすという行為も謎だ。機械に話しかけて商品は注文できるのになぜ濡れることを阻止できないのかと常々思っている。でも、それでも雨の日が嫌いになれないと気づいたのだ。

ジメジメとした空気、圧倒的な温度の低さ、側溝に飛び跳ねる飛沫、俗にいう「ついてない日」だと思う。世間はどうにか楽しいものにしようと、風に飛ばされない傘やスニーカーに見える長靴、防水のリュックやレインコートまで用意している。晴れの日用のグッズなんて日用品と扱われているのにとんでもないVIP待遇だ。しかしやっぱり嫌な日なのだ。月曜日と同じくらい。じゃあなぜ唐突に雨の日が嫌いじゃないかと思ったのか。それは雨の日に通じて感じる「高揚感」だった。文面で見たらサイコパスみたいでちょっと面白い。

小学生のとき、いつもは薄暗い教室に電気がついていてなんだかドキドキしたのを覚えている。晴れていると外は明るくても教室は意外と暗い。でも雨の日はスポットライトのように照らされるのだ。節電を促すシールに従順する小学生は電気のスイッチさえためらう。だから教室に入ってすぐの8個くらいあるスイッチを朝から全部押せるというのはなんだか嬉しいものだった。窓から見る校庭は真っ暗でベランダの柵から水滴が忙しく滴り落ちるのを見ていた。休み時間は外遊びに出てしまう友達も黒板の前に集まったりして賑わいを見せるのも醍醐味だ。いつもと違う「いつも」が雨の日にはある。それに朝読書や音読の時間、体育の最初の先生の話のとき、一瞬静かになるあのひと時に雨音が響くのも好きだった。でもあのドキドキはそれだけじゃない。いつもは暗くて頑張れないな、と思いながら学校に行ってなんとなくヌルヌルと朝が始まる。眠い目をこするとかではなく、頑張りたくないな、という気持ち。友達に会って学校に来たことを実感しながらも気持ちは暗いままなことが多い。でも雨の日はそれを肯定してくれる。ジメジメして低いテンションで、気分が乗らなくてもそれでいい。それでいて教室を明るく照らし、敢えて暗いことを強調してくれるのだ。自分は明るくなくても元気じゃなくてもいい、そんな気持ちが高まるような気がしていた。

ついこの前、大雨の朝を迎えた。いつも通り準備して外に出る。靴は濡れ、指を動かすと靴下から雨が滲み出てくるのがわかる。替えの靴下に履き替えたところで意味ないなと考えながら職場に着いた。あろうことかその日、また同じ高揚感を覚えた。職場に着いてドキドキしたのは初出勤以来だった。久しぶりすぎて恋かと勘違いしそうになった。恋じゃなければなんなのだ、こんなにも気分が乗らないというのに。こちとら雨だからいつもより早く出て遅刻回避した上に替えの靴下まで用意したんだぞ。そう思いながら、一番大きい窓から外の通りを見た。車から跳ねる飛沫、滴り落ちる大きな水滴、斜めに走る雨粒。それと明るく照らされた空間。一気に思い出した。ああ、そうだ、雨の日は頑張らなくていいんだ。それなのに働きにわざわざ雨の中歩いて来たのだ、えらい、えらいぞ自分。素直にそう思った。エンジン全開じゃなくてもいいけど、雨の日だから無理しなくてもいいけど、ちょっとやるか、そう思った。

なんなのだこれは。晴れの日には絶対ない高揚感なのだ。おかしい。晴れの日の方が「あーっいい天気!いっちょやるか!」となってもおかしくないのに。(と言いつつも晴れの日は専ら「なぜ晴れているのに働かなくてはならない」と思うので理にかなっている)なぜなのか、外のどす暗い雲と寒そうな通行人を見ながら考えていた。そして頭上の電球がピコンと光ったように気が付いた。今昔で共通するもの、それは「明かり」だ。普段はつかない時間に、空間に、存在を示すかのように点灯される明かり。昼間の電気は背徳感がある、そういうことなのか、と少し納得した。が…いや待て。背徳感で言ったら、家中の電気を全部つけるとか真冬のイルミネーションとか、そういうのも同類じゃないか。勿体無いと思いながらも心地よさを求めて電力を消費する。必要はないけれど点けている。でも雨の日につける明かりは違う。背徳感みたいなものは感じるがどうやらそれではないようだ。

一体全体なんなのだ、この高揚感はどこから来ている。どこかの携帯のAI機能に「ヘイ」と声をかけて雨の日の高揚感ってなに?と聞いてしまいたい。そんなの人間がわかるはずないのだから答えなんてないないのだ。。と思いながらその日は帰路に着いた。でも国語の答案はほぼ文章の中に隠れているし、数学も数式さえ知っていれば導き出せない答えなんてない。正体不明だったブラックホールもつい最近姿を現したのだから、雨の日の高揚感がなんなのかわからないはずがない。そしてもちろん調べた。自分の五感と知識だけでは形にすることができなかった。どちらにも共通する「明かり」。それは蛍光灯だ。大きい施設、建物、多くのお店や機関では主に蛍光灯が明かりとして用いられている。常日頃溶け込みすぎて不思議に思うことなんてなかったのだが、初めて蛍光灯がどういった目的で使われているのか知ることになった。

雨の日の高揚感の正体、それは蛍光灯。学校や会社で用いられている蛍光灯はほとんどが青白く光るもので昼光色と呼ばれているらしい。この昼光色の色味は真昼の太陽よりもさらに青っぽい色で、人間に対して覚醒効果を与えるとされている。だから仕事、勉強、読書等に最適の明るさと言われているようだ。この覚醒効果は緊張効果とも呼ばれるらしくくつろぎたい空間には向いていないのだそう。(サイトのほとんどの言葉を引用させていただきました。サイト名を忘れてしまいURLを載せられずすみません。)はっはーん。なるほどな、やっぱりそうだった。答えはあったのだ。でもまさか覚醒効果を高めるためにわざわざ蛍光灯を使っているなんて、と驚いた。社会は想像以上にうまくできている。でも確かに、教室に入って意気揚々と点けた明かりが寝る前につけるオレンジの光だったらみんな授業どころではなくなってしまうと思うし然るべくして設置されているのだと知った。自分もそのシステムにまんまとハマっていたということだ。ドキドキと感じていたのは高揚感ではなく覚醒効果による緊張で、気が紛らわされていただけだった。…なーんだ、という感情が優勝した。

でもやっぱり雨の日は嫌いになれない。黄色のレインコートを来たり、色とりどりの傘を見たり、ぐじょぐじょに濡れた靴を下駄箱に入れておいて下校時に履いたらまだしっかり濡れていて「うわー!気持ち悪いー!」と言いながら帰るあの時間だったり、水たまりにどこまで入れるかやってみたり、なんだかんだ特別なのだ。濡れて暗くて寒くてついてないかもしれないが、それでもやっぱり嫌いになれない。

でも無理はしなくていいのよね、なんせ雨なんだもの。

 

 

28072019

 

ざんわ

 

 

 

 

dough of for 3 days

 

幸せとは星が降る夜と眩しい朝が降る夜と眩しい朝が繰り返すようなことじゃなく大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ

 

瞬き / backnumber の冒頭部分です。幸せとはなんなのか、みんなの疑問を言い切ってしまえるような歌詞を書いてしまうなんて…と当時は驚いたものです。

…とここから先を、書いては消し書いては消しあっという間に数日経ってしまいました。どうやら私には重すぎた題材のようです。そんな大それたことを書きたかったわけではなくて、幸せってなんだっけ?とふと思い立ち友人と話す機会があったので少し整理しようと思っていただけです。私の良くもあり悪くもある癖で、わからないことはすぐにネットで検索するというものがあるのですが「幸せ とは」で検索しました。本来であれば1つ目か2つ目あたりにウィキペディアの引用が出てくると思うのですが、このページは違いました。上から順になんだか良く分からないサイトがたくさん。知りたいのはこういうことじゃない…と思って仕方ないので辞書を引きました。せっかくなので書き留めます。

 

しあわせ【幸せ/仕合(わ)せ/倖せ】

①運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。

②めぐり合わせ。運命。

③運がよくなること。うまい具合にいくこと。

④物事のやり方。また、事の次第。

  ーデジタル大辞典より引用(一部抜粋)

 

なんか…思っていたよりシンプル。というかもっと欲とか愛とかそんなものに触れていると思っていたので拍子抜けしました。運がよいこと、運命、ってなんじゃそれ。それってただの偶然じゃん、と思ったのですがその偶然こそが幸せ、ということなのでしょうか。いきなりむずい予感がプンプン。

知人と話した内容、それは「無償の愛」についてです。家族や友人、恋人から与えられる見返りの求めない大きな優しさの塊。それを感じるとき。世の中、自分のことしか考えずお金や地位など欲にまみれた願望がある中で、見返りを求めずに誰かに何かをしてあげるということは紛れもない愛で、優しさで。それを受け取ることができる場所にいることは確かな幸せだと。例えばその形が家族だったとして、祖父母の代から親へ、親から子へ、そして孫へ、相手を尊重し且つサポートしながらも一個人として区別する。そんな環境で育ってきたとしたらそれはとても幸せです。他人の家族全員と接する機会というのは現状かなり減ってきていると思うのですが、もし万が一そんな機会があった場合、決して自分と比較してはならないです。

私は人生はゲームだと思っているたちです。人それぞれ用意されているステージは違っていて、パッケージを開けてカセットをセットし、ゲームをスタートさせるまでそこが何のステージか分からない。1−1から始められる人もいれば、いきなり最終ステージのでっかいボスの人もいる。初期装備も違っていて、たくさんのお金を持っているとか、戦闘能力に長けているとか、何もないけどお供がたくさんいるとか、様々。でもこのゲームは一度始めたらそう簡単にはやめられなくて「セーブ」とか「はじめから」なんてボタンは存在しない。とんでもないことが起こらない限りやり続けなければならない、凄まじいゲームです。でもきっと攻略の仕方がわかればきっと楽しいゲームに違いないのですが、今のところ本物の攻略本を見つけたことはありません。超人気大作なのに攻略本がないなんておかしい。石を叩いたらお金が出てくるとか、草をむしり続けてお花を植え木を育てたらスズランが生えてくるとか、そんな知識すらどこにも書いてない。なぜだ、なぜなんだ。。。

多分それはきっとこのゲームが、「運命」ゲームだからだと思うのです。人生は運命ゲーム。いろんなステージが待っていて一つずつクリアしていく。でも誰一人同じステージの人はいなくて、みんな似ているステージを模倣して少しでも楽にクリアできるように進んでいく。私は結構本気でこう思っています。だから他人と比較してはならないし、する必要もない。他人のステージや初期装備が羨ましく感じることがあってもそれは仕方ない。なんせ運命なのだから。でも我々は模倣という技を持っていて時間やスキルを活かして模倣することができる。変わることができる。少し前に某アナウンサーが「人生は引いたカードで勝負しなければならない。そのカードは変えることも捨てることもできないのだから澄まして使うしかない。」というような発言をなさっていたというのをネットで見て(ネットの情報なので間違っていたらすみません)本当にその通りだ…と思いながらいいねをしました。アナウンサーなんて憧れられる職業で華やかなイメージですが、そんな人もこうやって思うことがあるほどです。過去は変えられないけど、現在と未来は自分次第でどうにでもなる。

どうにでもなるっていうけど、どうにもならないんだよ!と私は幾度となく思ってきました。そう、変わらない過去といっても今の自分を作っているのは紛れもなく過去であるしその過去を、変わらないからといって何も思わずにいるのは無理です。それを友人に話したところ、自分を満たすことをゴールにする。というようなことを言っていました。すみません、あまりにもたくさんのことを話したので忘れてしまいました。でもこれって、めちゃくちゃいい目標だと思ったのです。他人のためなら何かしてあげられるけど自分のことはどうでもよくなっちゃう族って私の他にもいると思うのですが、自分自身と向き合ってまず始めに自分を満たす。自分を満たすものはなんなのか考察する。自分のために時間を作る。好きなものに触れ、感じ、汲み取っていく。そうやって満たされた自分を成形していく。それって意外にも難しく核心的に大切なものだなと思ったのです。

ここまで書いてきてもう一度、幸せとはなんなのか。それは運命だと言っていいのではないでしょうか。運命ゲームだと書きましたが本当に人生は偶然で、生きているということに価値がありその中で自分を満たすものを探求し追求し、自身を成形していく。それが幸せなのかと。少し前の更けた夜、眠れる音楽を聴いてみようと動画を立ち上げました。正直とても眠れる気がしなかったので100を超える寄せられたコメントを読み進めていくとそこには「地球規模で考えたら日本人として生まれたことがもう幸せ」というようなことが書かれていて妙に納得しそのまま寝たのを覚えています。終わりのないような毎日に現れる悩みや跳ね除けても返ってくるストレス、それでも偶然生まれてきて運が良かったと思えたらそれはもう幸せなのだと思います。

最後に友人が何かで目にした言葉、「幸せは義務である」。幸せは付随するものなんかではなく全員が果たさなければならないもの。幸せでないと感じたなら少しでも幸せになれる方向へ進むべきなのです。それが逃避だろうとなんだろうと。 

 

18072019

 

ざんわ