as it is

そのままで

生きている意味がわからなくなった話

生きてる意味がわからなくなった話。(死について触れています。不快になる方は読まないでください。)

 

なぜ死んではダメなのだろうと考えた。死んだら終わりというけれど、何がどうダメなのか。自分の人生なのに、誰一人として同じ人生を歩んできている人はいないのに、なぜ、どうして人は皆「生」に固執しこの苦しい世界を生き続けているのだろうと思った。こんなことを考えたのは平日でも夜中でもなく、日曜日の真昼間。しかも暗い部屋の中で独りだったわけではなく、5・6人と一緒に働いていながら明るい光のもとで。突然、人はいずれ死ぬのになんのために努力しなんのために生きているのかよくわからなくなり涙が溢れてしまった。数十年生きたら、今まで積み重ねてきたものや努力してきたものは物として残さない限り消えてしまう。それなのになぜ人は日々をこなし苦しみながらも喜びを見出し生きているのだろうと思った。

暇なのだと思う。毎日忙しく仕事に明け暮れたり、友達と騒いでいたり、何かに夢中になるものがあればこんなこと思う暇なんてないのだ。自分と向き合うだけの時間がポツリポツリと増えていった結果、極論でごちゃごちゃした感情が生まれてきたのだろう。書いてはいけないと百も承知で書かせてもらうが、もう、今回の人生はこれでいいやと思った。もう今回はこれでおしまい。やりたいこともやったしこれ以上頑張る意味もない。自分が少し努力したところで自分しか変わらないし変わりたいとも思わない。自分が死んでも悲しむ人なんていないし、悲しむ人がいたとしても時間が解決する。現にそういう人たちを見てきたし自分がいなくなってもそうなるだろうと思う。昨晩寝る前にどうしたら楽に、苦しまずに死ねるか検索した。本当に便利な時代だなと思いながら、一番上にホットラインのサイトが出てきたのを見てこういう苦しみを持った人はたくさんいることを知る。自殺をするということは自分で自分の息の根をとめるということだからやはりコントロールしたいのだろう。首吊り自殺が一番主流で簡単な方法だと知る。ひも状のもの一つで座っていてもできるらしい。首の脱臼をすれば一瞬で気を失い、10分見つけられなければそのまま死に至るそうだ。簡単でいつでも死ねるなと思ってこれだったら今すぐにでもできるなと考えた。自分が死んだら誰が一番最初に見つけてその後どうなるのか、離れた家族はどれくらいできてくれるのかとか、死後の魂はちゃんとこの世に存在するのかとか、自己中心的なことばかり考えた。でも正直すぐに行動しなかったのは心のどこかで死んではいけないということがわかっていたのだと思う。でもその時はまだ死んではいけないことがどうダメなのかわからなくて、他のサイトを読み漁る。自殺した方のご家族やその近親者等、ご遺族の方が書き込めるサイトがあった。驚いたのは悲しみや寂しさの他に怒りに変わってしまっている人のメッセージでお前だけ楽になっていいよな!と。他にも、ご家族の一人がなくなってその後あとを追ってなくなる方が絶えず、残されてしまった方もいた。どうしたらいいのかわからない。何をしていいのかわからないし、何もできない。生きる意味がわからない。そんなメッセージばかり見た。それを見て私は死をどこか他人事だと思っていたことに気づく。正しく理解していなかった。死ぬということは自分の人生が終わり、この世に戻って来れないというだけではない。死を意識していなかった他人の人生まで奪ってしまうということだった。悲しむ人がいないなんて嘘だ。人はどうやったって一人では生きられない。生まれる時も死ぬ時も一人というがそんなわけはない。この世に生を受けたときからもう他人によって生かされている。確かに同タイミングで死の世界に行くことはほぼ難しいが生きてきたという事実がある限り決して一人ではない。自分を知る時はいつだって他人が関係している。他者の存在で自分の存在が浮き彫りになるのだ。自分一人しかいなかったら自分を知ることはできない。自分がいなくなることで成り立たなくなる世界が絶対にあって、自分がもういいやと思う以上の感情が自分のせいで湧き上がってしまうこともある。悲しみや苦しみ以上のものがこの世には存在する。そういう感情を持つと人は賢すぎるが故に壊れてしまうのだ。大切に思うものが、幸いにも自分にはあってそういう人たちの時間を奪ってしまいたくないと思えた。だから死んではいけないと、そう思うことができた。

若い世代の人たちが死に至ってしまう一つの原因としていじめが挙げられていた。自分の存在意義の不明確さに嘆いたり、大切にしたりされたりそういう世界があることを知らない世代なのかなと予測する。自分がいなくなったところで別にどうにもならない。そう思ってしまうのかな、と昨日の自分は思った。過去にそう思ったことも実際にある。今は、今はそうかもしれない。自分がいなくなったところで悲しむ人や変わることなんてないと思うかもしれない。でも、未来は違う。自分がいることでしか成り立たない世界があって自分がいなくなることで生きられなくなってしまう人もいる。そういう未来がある。だからそのために生きた方がいい。今は苦しくて正直もうどうでもいいと思うことばかりで、勇気を出して助けを求めることもできずあがき苦しんでいるかもしれないが、そんな自分でも必要とされている。未来が必要としているのだ。生きたくて生きてるわけじゃないと思っていたが、生きる意味があってここにいるのだと思う。生きたいわけじゃない、生まれてきたかったわけじゃない、そう思うこともある。親の欲やステータスの道具として存在していると思っていたらそれは間違いで、自分の意志云々の前にこの世界に必要とされてこの世に存在していることを忘れてはならないと思った。

以前にも書いたが、人生は運命ゲームである。運命ゲームでかつ不平等なクソゲーだ。くだらなくて意味のわからない世界だと思う。お金や地位があったら幸せなのか、なんのために生きるのかなんて考えたことのないような人たちが犇めき合っている。でも今回の人生はそうなのだ。そういう世界に意味があって放り込まれたのだ。だからもうそこについて考えるのはやめた方がいいと思った。仕方がないのだ。変えようと思っても変わらない。変えられるのは自分自身だけで生きてることについて向き合うよりも、とりあえず死ぬのはやめておこうと思うだけでいい。意味があって存在している。だから生きているだけでいい。存在していることに意味がある。絶対にそうなのだ。

生きていくことは難しい。難しく、苦しい。でも生き続けることに意味があるのだ。どうでもよくなって他者と関わらないと生きていけないようなもどかしさに苦しむかもしれないが、死んだところで一人にはなれない。今の苦しみがいずれ楽しさや喜びに変わる時がくる。この世界は広い。人生数十年じゃ何も知り得ないほど、溢れている。今の世界がどうでもよくなったら他の世界にいける。死ぬということが悪なのではないが、死ぬという行動が他人の人生を壊してしまう危惧を招くことになり、存在が消滅したことで成し得ないサイクルが出来上がってしまうのだ。楽観的に生きていくことは本当に難しいが、悲観的になるのは意思を持って止めることができる。今の世界以外にも楽しいことはあってどうでもよくなったら一旦離れてみる。人はいずれ死ぬのだから、早まらなくていいのだ。何もかもめんどくさくなることもあるかもしれないが、そういうときは他者に思い切り頼っていいのだ。くだらなく思えるこの世界かもしれないが、くだらないと思えるほど自分はその世界に生きているのだ。生きることの難しさは解決できない。解決策なんてない。でも人生に答えなんて必要ない。大丈夫、全てなんとかなるのだ。生きていたらいいことが起きてどうでもいいと思っていたことを忘れてしまうかもしれない。だから生きるのだ。

難しく、孤独で、寂しさや暗さから逃れられないとき、自分は暗闇にいると理解している時点で光を知っている。光を知っていたらそこに向かって進むだけなのだ。自分には存在する意味がある。明日も生きて、明後日も生きる。十分なのだ。

生きているだけで、もうそれだけで。

 

 

19082019

 

ざんわ