ディーズデイズ
なんだかゴシック体でちょっと斜めにした文字でポップに書きたいタイトルだけど最近頻繁に考えること。自信について。私はとにかく自分に自信がない。容姿もそうだし学歴や経験、ポリシーだってない。他人を感じることで、自分は〇〇ができない、足りない、と後ろ向きに捉えまくりもいいところ。マイナス思考は良くない。良くないと思いながらその良くないことを考えてしまう自分なんて…とその負のループから一向に抜け出せない。そもそも自信ってなんだ?自信があったらそれはいいことなのか?自信がない自分はなぜダメだと思うのか?道を歩きながら、皿を洗いながら、シャワーを浴びながら、日々自問自答してそんな毎日に少し疲れを呆れを感じ始めていた。
調べたら自信とは「自己を信頼する心」と出てきた。アバウトすぎる。己を信じる、それだけらしい。じゃあなぜそんな簡単なことが私にできないんだ。ああ、私はやっぱりだめな人間なんn…(以下略)よくわからんが自分は大丈夫と思うことが自信らしい。そう思うと自信に対するイメージが変わる。今までは「俺はこれ、できるんだぜ」「どう?いいでしょこれ」みたいな驕り高ぶるようなイメージだった。だから自信を持つことっていいこととは思えなかったけど、それはどうやら違うらしい。一つ解決した。
他人と比較することで浮き彫りになる「自信」というのは私の理想像とはまた違う。自分は大丈夫だと思うきっかけに、他人と比較し「ああ、あの人よりは上だ」とか「あの人がこうだからこのくらいのレベルでいいのか」とか「みんなはこのくらいのレベルだけど自分はこうだから」『だから大丈夫』みたいなものがあるけどそれは違うと思っている。それってあくまでも一つの世界に溶け込む道しるべ(以下:ライン)みたいなものなだけであってそのラインを踏んでいたり超えているから私は自信を持って、胸を張って生きていけるのよ!というのはその人個人の感覚でしかないはず。実際にはそのラインは人によって違うし、というかそもそもそんなラインなんて存在しないと思っているので比較しようがない、というのが私の感覚です。
じゃあ一体、自信は、自分を信じるには、どうしたらいいのかという話になる。というかそれで最近ずっと暇を潰してきたのだ。あまりにも正解にたどり着かないので、自信がありそうな人を片っ端から思い浮べてみた。中学の同級生、高校の先輩、バイト先の仲間、元職場の同期、上司…その中で一つ共通するものは、ランクをつけてもらっていたのだ。試験や資格、テスト、競争、、これはシンプルにとにかく多数大勢の人が対象のもので上位を取るということだ。確かにメダルをもらったり賞状をもらったり、表彰台になんか登ったときには、それはもう優越感でいっぱいだ。それは私も嬉しい。多分喜んで、祖父母の家に行って近くのファミレスでパフェを食べさせてもらおうとする。でも、それはさっき書いた他者によって浮き彫りになる自分なのだ。確かに努力しているしたくさんの人が挑んだもので少数派になれるというのは才能でもある。じゃあその上位になれなかった人たちは自信を持ったらダメなのかと問われたら、そうではない。自信を持っていいのは1〜5位の人までとか、そんな法律はない。
そうなるといつも自信のある人は、なぜ自信があるように見えるのか?ここまできたら見てくれだけでも真似させてほしい。ランニングもジム通いもだいたい形から入るものだし。プールに通おうと思って買った水着は引き出しの上から2番目に入っていることは一旦置いておく。そう、よくよく考えたら彼らは総じて落ち着いているのだった。焦らないし、下手に落ち込んだりもしない。熟考し丁寧に行動している。謙遜はほどほどに、だが尊敬と思いやりは決して忘れない。そういう人たちは私の視点からはかなり自信があるように見える。
おそらく彼らは、自分の判断や考察力で行動し、その結果によってもたらすものが良くも悪くも受け入れ、糧にし、積み重ねたものがその人の「今」を映し出しているのではないか。他人の情報や現実に漂う常識なんてものに捉われず、自分の意思を、時間をかけて、ゆっくり積み上げてきた。自分の意思を積み上げるために、自分のことだけでなく他人のことも考えながら生きてきた。だからどんなに歳を重ねていても、その積み上げてきたものを崩さないように慎重に、そしてその高さを自分の内に秘めながら、誇らしくも謙虚に、落ち着いて過ごしているのではないか、、そう感じたのです。
自己を信頼する、なんて一見簡単そうでめちゃくちゃ難しいやないかい!と思ったのが最近の話でした。あと、どこかの本でマイナス思考に走る人は自分のことが大好きな自己中マンだというのを読んだ。確かに前か後ろかは置いておいて、時間を割いてまで自分のことを考えるというのは表面的には自己中心的であるしそれを読んで妙に納得しマイナスに考えるなら楽しく生きる方法を自分のために考えておいた方がいいや、と一新したのだった。
最後に、【悲観は気分・楽観は意思】というネットで見た言葉を使わせてもらうと、自信がないと感じたとき、またそれに伴って自己嫌悪に陥ったとき、それはいっ時の気分に過ぎないのだということ。誰しも簡単に自信を身につけられると思ったら大間違いであるし、誰かを見て嫉妬心を抱いたなら、そんなつまらない時間は捨てて帰ってポテチ食べながら可愛いワンちゃんの動画でも観て休んで、一から努力する時間に当てた方がマシということ。
生きていくのは、坂道のようにハードで足のつかないプールのように不安で溺れそうになるときもあるけれど、なぜ自分がその坂を登るのか、溺れそうなら泳いでみようとか、そういうちょっとしたきっかけによる考えを意志を持って判断できればそれはもう自信と呼んでいいのではないだろうか。そう思ったのです。
そして自信なんてなくても、生きてるだけで満点表彰台金メダルです。
自分は自分。
14072019
ざんわ
好きな動物
ナマケモノです。
この自我が芽生えたのは小学生の時で、それまではキリンと答えていたような気がします。ナマケモノという生き物を知ったときは衝撃でした。好きな理由はみんなが犬や猫と答える中で唯一誰とも被らない動物だったというのと、ずっと寝ていられる生き物が好きで、コアラやパンダもいいけどナマケモノは動きも遅いからです。しかも極端に。良くないですか?次元にとらわれないあの速さ。あのゆるさ。なんとも言えないあの表情も好きです。遅すぎて地面に降りたら即肉食動物に襲われてしまうとか。(調べたらどうやら週に一度排泄のために地上に降りるらしい)
ズートピア、なんとナマケモノが登場するんですよね。あれは本当にテンションが上がりました。あそこにナマケモノを持ってくるという発想はナマケモノの良さを知らないとできないんじゃないか、、しかもあのラストもたまらないです。そこのシーンを見て欲しいだけにこの映画をオススメしてもいいくらい。動物系のアニメって王道の動物しか出てこない気がするんですけどどうでしょうか。(ディズニーやピクサー、ブルースカイスタジオ、ドリームワークス等々3Dアニメーションが好きでよく観ます)かっこいいライオン、群がることがもはやブランドのシマウマ、スタイリッシュな見た目と可愛い顔を持ち合わせながら実は強いキリン、大きさが武器のぞう、身近な生き物だと、完全に癒し系の犬、ゆるく生きることへの意思は強いネコ、小柄なだけじゃない可愛さのハムスター、キングオブ水槽の金魚、、地球で生きている以上弱肉強食のサイクルは覆せないわけで、ペットだったり動物園だったり水族館だったり、本来の動物の生態系ではないのが少しモヤモヤする時もあります。でも人間に生まれてきた運命なのでペットを飼ったこともあるし、動物園、水族館は好きです。心のどこかでいつも本来の生きる場所へ返して欲しいなと思うことも多々あるんですけど。うまく共存していきたい。(なんの話)
ナマケモノは好きなのですが正直、大して知識はありません。でも小学生のときにナマケモノの絵を描こうとして想像以上に難しかったのだけは覚えています。顔がどこからどう出てるのかわからなかったし、顔の模様もなんだか複雑だった気が。どうやっても木々の間の枝にぶら下がってる図しか思いつかないので(当時も今も)この後少し調べて見て描く練習もしようかな。
まあそんな感じです。賢くもないのにちょっと小難しそうなことを考えたり書いたりしていると気持ちがそっちにつられて暗くなってしまうときもあって。他人の人生が簡単に覗き見できる世界は早く終わりを迎えて欲しいなと思う今日この頃です。あまり深く考えずに楽しく生きたいので今日はナマケモノのことを考えて寝ます。少し前まで好きなことが何もなくて本当に平坦で無機質な繰り返しだけの毎日を送っていたけど、気持ちが曇ってきたときに自分で少しでも晴れ間を見せられるような力はほんの少しですがついてきました。雨が降りそうな時はじゃんじゃん降らせればいいし、晴れにしたいときは世の中の正しさに捉われず本能のままに好きなことをすればいいし、逃げても負けてもいいし、、正解なんてないので自分に与えられた時間をいかに楽しく過ごすかが人生の質なのかな〜と考えたりしています。
でも生まれ変わったらナマケモノになりたい。それか猫。もしくは鳥。
03072019
ざんわ
次は好きな動物の話。
夕陽に照らされたビルを見て、陽が沈むのを認識できるように
人は暗闇にいるとき、光を知っているのだと思う。
光を知らなければそこが闇だなんて知り得ないはずだ。
無条件に愛され、それが当たり前の環境で育ち、なんの劣等感も持たないような人生を歩んでみたかった。
愛されていなかったのかと聞かれれば答えは否で、なんなら与えられすぎていた時期もあった。きっと羨ましがられる立場にあったと思う。その立場から降りたときも、愛情が途切れることはなかった。
でも当時熱量が下がったことは理解できた。当人たちが「大人の事情」で闇雲に投げ出そうとしたことも。言葉なんていくらでも飾ることはできるけどそこに込められた愛情は一切誤魔化せない。トーンやそれっぽい行動で伝えたつもりだとしてもそんなのはガラス越しにマジックをしているようなものだ。ずるいなと思う。なめられていたんだなと思う。これくらいしておけば十分だろ、という声が今にも聞こえてきそうなほど。
話は逸れますが、生きていく上で年齢、性別、国籍、関係ないと思っています。対人関係である以上、人は皆平等で相手を尊敬し謙遜の気持ちを思って接する他ないからです。それがどんな関係であろうとも。言語・文化の違い、地位・学歴の差、、たとえ家族であったとしても、誰しもが他人であり尊重して接していくべきではないのかとずっと思っています。(これは個人の意見で、私は専門知識もない状態で思ったことをつらつら書いているので違ったらすみません。)先日、知人と思いやりの幅について話をしました。相手を馬鹿にしないこと、いかなるケースも想像して嫌な気持ちを持つ人を一人でも減らせるようにすること、思いやりに「幅」を持たせること、それは自分の想像力と経験、知識でまかなえるのではないかという話です。傷ついた人が優しくできるというのは、「自分が嫌な目にあったパターンを先読みして避けることができるということ=優しい」みたいな方程式がありますが(少なからず私の中には出来上がっています)それは当事者の経験・知識・思いやりから来るもので、相手が嫌な思いをするけどまあいいか。で完結する場合も考えられます。それでもほとんどの嫌な思いをした人は二次災害が起きないように、わざわざ思考を働かせて相手のために時間を割くのです。それが思いやりであり優しさだと思います。でも、嫌な思いをしていなくても想像すれば、相手のことを時間をかけて様々なケースを考えておけば、傷つけるなんてことはなくなるのではないかと思うのです。想像は自分の経験や知識からくると思うので、こうやって書くのは簡単でも実行するのはなかなか難しいですが、思いやりってそういうことじゃないのかなと一個人として思います。
書きたかったこと。それは、思いやる価値がないと思われたときが一番悲しくて苦しい闇じゃないかということ。それを与える側になりたくないということ。恋でも愛でも友情でも、相手のことを考える時間ほど輝かしいものはない。光があるなら影もある。暗闇に立ったと感じたとき、既に光を知っている。光を知っているならそこに向かって歩き出すだけでむしろ自分が発光したっていいのだ。なんだっていいけど、そこに立ち止まる必要はない。愛されなかったと感じるのは、何かと比較し初めて劣等感を持っただけで、比較する対象がなければそれは永遠に知り得なかった。比較したものに光を感じたなら模倣するなりなんなりすればいい。それだけだ。そして闇を作らないように自分の中でできることをやり尽くしていく。誰からも嫌われないようにとか傷つけたくないとか、人間果てし無くいるからそれは難しいかもしれないけど、自分なりに相手のことを考える。なんだか何かを信仰しているような感じになってしまったけど、これが今の感じていること全て。
書きすぎた。次は好きな動物の話でも。
28062019
ざんわ
夢陥溺 - 夏至の日に
冷たい風が吹く夏至の日。
オレンジの空を見ながら、1年前は関東の真ん中らへんで一人暮らしをしていたことを思い出した。
まさか寒い夏至を迎えるなんてあの時は思ってもいなかった。
今の生活も、全く。
当時は今の生活を夢に描いていて、理想で、憧れで、新しい世界を見せてくれるし、きっと自分も変われるのだろうと思っていた。
でも、理想の現実なんてのはただの現実には変わりなくて
慣れてしまえばそれは憧れ”だった”日常で、代わり映えしない毎日がぬるっと過ぎ去ってしまうのだ。
それが余計に自分次第でしか変われないということを浮き彫りにして、なんだか苦しくなってしまう。夢の中にいるのに、溺れているというのだ。なんて贅沢な話。
遠くから眺めていたらキラキラしているものも、実際に触れて見たら濁った水が反射しているだけだったりする。ゴロゴロ転がる画面越しのセンス抜群のあの人たちも、どこかいけ好かない性格を持っているかもしれない。触れてみないとわからないものなんて、世の中にたくさんある。
キラキラにたかってしまう自分の性格を、青いライトに群がる虫のように思ったことがある。(人間はハエと同じ遺伝子を持っているとどこかで聞いたから本能的な選択としてはあながち間違いではないのかもしれない。)
彼らはライトに当たると無論人生に終わりを迎えてしまうわけだが、地球カースト上位の人間は幸運にも考えることができ、人生を選ぶことができるのでキラキラにたかった後にもう一度やり直せる。キラキラも触れてみなかったら一生キラキラで終わっていたし、触れたことが大きな一歩だとは思う。
でも、あのときの自分に何か言えるのだとしたら、
「どう生きたいのか?」と問いたい。どんな新しい世界を見たかったのか?どんな自分に変わりたかったのか?ぬるっと過ぎてしまう毎日を、画面越しの他人と比べて何か変わらなきゃと思いながらも変われない自分を受け入れきれずに環境のせいにしていなかったか?自分のやりたいことは?目標は?結果、社会とどう共存したいのか?
きっと、答えられなかったと思う。変わりたいなんてカッコつけたこと言ってるけど、当時は逃げ出したくて仕方なかったんじゃないかと思う。やりたいこともできない自分、学校で真面目に勉強してきた友人たちが社会で重役を任されているという現実、同年代たちが芽を出しメディアに取り上げられあらわになる自分の無力さ。努力できない自分を受け入れなければならないということ。
どれもこれも自分の奥深くまで突き刺さり、一度リセットしたかった。できないのに。リセットなんてできない。どうにか見方、やり方を変えて現状を回復していくしかない。行動し、経験し、自分のものにして、自分で自分を満たし、景色を変えていく。
受け入れることも一つの課題。できないこと、自分の実力。ヘンテコなプライドなんて荷物になるだけ。
努力が一番の近道で、やりたいことがあるならそれに向かってやるだけなのだけど
今は少しだけそこの面での戦いは休憩させてほしい。
自分は死ぬ前に何を学びたいか、どんな人間になりたいか、どんな毎日を過ごしたいか、明日何を食べたいか、次の休みは何をしたいか、そういう些細なことを丁寧な意思と穏やかな心で選択していきたい。あのとき答えられなかった自分に、もう二度とならないために。適当に過ごすのではなくて、ゆっくりでも毎日を蔑ろにせず意思を持って過ごす。自分と向き合わなければ何も始まらない。
なんだかたくさん書いてまとまらなくなってしまいました。
でも、今思っていること全て。丁寧に生きて、楽しく過ごす。時には強さや耐えも必要かもしれないけど、それは自分の「いいこと」に繋がるときだけ。時間は有限で、何事にも終わりはある。自分が選択して元気に動けるのなんてほんの数十年しかないのだ。
それを夢の中で、夢が、思い起こさせてくれた。
そう思うとやっぱり夢って、
キラキラしているものなのかもしれない。
今は溺れているけど、いつか泳げるように。
25062019
ざんわ
大人になるということ
スーパーに行けばお気に入りのチョコを買ってしまうし
SNSのハートマークはアプリを開く度に気にしてしまう。
一番長く付き合っていた元彼との写真は
いつまで経っても消せないまま。
歳を重ねるにつれて欲深くなっています。社会の仕組みや他人との関係の築き方、自分とは何かと考え、知れば知るほど「満たしてほしい」という感情が影からひょっこりと顔を出すのです。
不思議でした。10年ほど前に想像していた大人とは全くかけ離れた姿になってしまっていることが。自分は欲深い人間になり得ないと思っていたからです。正直なことを言うと当時少しふくよかな知り合いに会ったとき、なぜ太っているのだろうと思っていました。自分のやりたいことをして、やりたくないことはやらない。生きていくってそれだけのシンプルなものだと思っていたからです。起床、学び、運動、就寝、時々遊び。その繰り返しで太る要素なんてどこにもないと本気で思っていました。その繰り返しが自分の理性によって保てなくなる世界があることを知り得なかった。そしてどこかでそんな大人を小馬鹿にしていました。
自分で自分をコントロールさえできないなんて
自立した今、私は当時の知り合いよりも太っています。
付き合いで酒を、寂しさで飯を、褒美といって甘味を、疲労を訳にベッドから一歩も出ず、価値のない情報に浸り、本能を言い訳に曇った愛にまみれ、それを無理やり大人という枠に閉じ込めて。一体どうなってしまったんでしょう。
物欲、食欲、性欲、承認欲求、どこからくるんだろう。他の世界なんて知らなければ、自分のことだけ見ていれば、欲なんて湧いてこないんじゃないか、でもそれって外の世界を知らずに歳を重ねるということ?それは大人って呼べるの?
愛されたい、満たされたい、褒められ讃えられ、他の誰でもない誰かになりたい。
他人によって成り立つ世界。コントロールしていかなければなりません。
大事なのは他人からの目線ではなく、自分で自分を愛することだと思うがそれが一番難しかったりする。自分が良ければそれでいいのだが、果たして本当にそれでいいのか。
認められて何になるのか。その欲は寂しさじゃないか。一時のものじゃないか。
満たされない心との向き合い方と、満たされたときの心の扱い方。
思い描いていた大人に果たして自分はなれるのか。
考えすぎと言われたらそれまでです。
深くて寒い夜、もう少し足掻かせてください。
03062019
ざんわ
悔しくて。日々。
なんだか真っ当に生きようと同じ日々を繰り返してることが
ばからしく思えてきて。
世の中には楽して稼ぐ人だっているのに。
お金が全てじゃないとわかっていても
やっぱり生きていたらお金って必要じゃないですか。
完全に妬み嫉みなんですけど。
言うならば道徳とかけ離れた稼ぎ方を知って
道徳とかけ離れているのに、羨ましく思っちゃったんです。
お金に目が眩んで、生きていることの価値を
真っ当に生きることの美しさを、楽しさを、輝きを、忘れてしまったんです。
心と思考がちっぽけな自分に嫌気もさしたんです。
純粋に羨ましかった。例を出せば、会社員が1ヶ月いろんな葛藤を乗り越えて与えられる給料の数倍を、もっと楽な手法でもらっているように見えたので。
(人を自分のモノサシで測るのは良くないんですけど。)
その手法を取るにあたって、見えないところで努力しているのかもしれないけど
それでも非道徳的なやり方が道徳的に生きている人より
楽して生きてしま(っているようにみ)えるなんて…そりゃないぜ〜…って。
人生に何を求めるかでこの感情をコントロールできるのかなあ、と最近考えています。
簡単な話、稼いで心の安定を取りたいなら同じ手法で同じように稼げばいいし
道徳的に生きたいなら反面教師にして真っ当に生きることへの輝きに感動していればいいし。でもきっと私は両者とも取りたい欲張りなんだと思います。
真っ当に生きていながらもしっかり稼ぎたい。
文字にしたらなんて貪欲な。恥ずかしくなってきた。
(っていうかそもそも真っ当ってなんだ。)
でもそれって今の一般社会では、その人の思考や能力よりも
学歴や繋がりが色濃く関係してくるのが現状じゃないですか。
だから学歴を取るか、人脈を増やして繋がりを持つか、
…そうやって這い上がっていくしかない、のか。
他者と自分は全く切り離す必要があると思っていますが
時として、普段自分の中で律するために堪えている感情が
小学生が転んで泣き喚くみたいに、
段々と大きな声で力強く主張してきます。
もしかしたらその感情に従ってみてもいいのかもしれないけど
それは私のなりたい大人じゃないことに途中で気付きました。
自分の正しいに従って生きることは自分を救う。
それでもやっぱり悔しいのです。
29052019
ざんわ
as it is
少し前。血迷って初めての投稿をしました。
いつも何かの「初めて」は気合いを入れすぎてしまいます。
そのままで
と言う意味にタイトル名を変更しました。
私自身まだ自分をわかっていないことが多くて、思っていること、発言、行動、、
いつもブレブレです。
でも、そんな自分を受け入れて
少しずつ成長していければいいんじゃないかと思って
ブレてもブレなくても私は私、とここに来たときに思えるような
そんなブログになればな、と思います。
28052019
ざんわ