夢陥溺 - 夏至の日に
冷たい風が吹く夏至の日。
オレンジの空を見ながら、1年前は関東の真ん中らへんで一人暮らしをしていたことを思い出した。
まさか寒い夏至を迎えるなんてあの時は思ってもいなかった。
今の生活も、全く。
当時は今の生活を夢に描いていて、理想で、憧れで、新しい世界を見せてくれるし、きっと自分も変われるのだろうと思っていた。
でも、理想の現実なんてのはただの現実には変わりなくて
慣れてしまえばそれは憧れ”だった”日常で、代わり映えしない毎日がぬるっと過ぎ去ってしまうのだ。
それが余計に自分次第でしか変われないということを浮き彫りにして、なんだか苦しくなってしまう。夢の中にいるのに、溺れているというのだ。なんて贅沢な話。
遠くから眺めていたらキラキラしているものも、実際に触れて見たら濁った水が反射しているだけだったりする。ゴロゴロ転がる画面越しのセンス抜群のあの人たちも、どこかいけ好かない性格を持っているかもしれない。触れてみないとわからないものなんて、世の中にたくさんある。
キラキラにたかってしまう自分の性格を、青いライトに群がる虫のように思ったことがある。(人間はハエと同じ遺伝子を持っているとどこかで聞いたから本能的な選択としてはあながち間違いではないのかもしれない。)
彼らはライトに当たると無論人生に終わりを迎えてしまうわけだが、地球カースト上位の人間は幸運にも考えることができ、人生を選ぶことができるのでキラキラにたかった後にもう一度やり直せる。キラキラも触れてみなかったら一生キラキラで終わっていたし、触れたことが大きな一歩だとは思う。
でも、あのときの自分に何か言えるのだとしたら、
「どう生きたいのか?」と問いたい。どんな新しい世界を見たかったのか?どんな自分に変わりたかったのか?ぬるっと過ぎてしまう毎日を、画面越しの他人と比べて何か変わらなきゃと思いながらも変われない自分を受け入れきれずに環境のせいにしていなかったか?自分のやりたいことは?目標は?結果、社会とどう共存したいのか?
きっと、答えられなかったと思う。変わりたいなんてカッコつけたこと言ってるけど、当時は逃げ出したくて仕方なかったんじゃないかと思う。やりたいこともできない自分、学校で真面目に勉強してきた友人たちが社会で重役を任されているという現実、同年代たちが芽を出しメディアに取り上げられあらわになる自分の無力さ。努力できない自分を受け入れなければならないということ。
どれもこれも自分の奥深くまで突き刺さり、一度リセットしたかった。できないのに。リセットなんてできない。どうにか見方、やり方を変えて現状を回復していくしかない。行動し、経験し、自分のものにして、自分で自分を満たし、景色を変えていく。
受け入れることも一つの課題。できないこと、自分の実力。ヘンテコなプライドなんて荷物になるだけ。
努力が一番の近道で、やりたいことがあるならそれに向かってやるだけなのだけど
今は少しだけそこの面での戦いは休憩させてほしい。
自分は死ぬ前に何を学びたいか、どんな人間になりたいか、どんな毎日を過ごしたいか、明日何を食べたいか、次の休みは何をしたいか、そういう些細なことを丁寧な意思と穏やかな心で選択していきたい。あのとき答えられなかった自分に、もう二度とならないために。適当に過ごすのではなくて、ゆっくりでも毎日を蔑ろにせず意思を持って過ごす。自分と向き合わなければ何も始まらない。
なんだかたくさん書いてまとまらなくなってしまいました。
でも、今思っていること全て。丁寧に生きて、楽しく過ごす。時には強さや耐えも必要かもしれないけど、それは自分の「いいこと」に繋がるときだけ。時間は有限で、何事にも終わりはある。自分が選択して元気に動けるのなんてほんの数十年しかないのだ。
それを夢の中で、夢が、思い起こさせてくれた。
そう思うとやっぱり夢って、
キラキラしているものなのかもしれない。
今は溺れているけど、いつか泳げるように。
25062019
ざんわ