as it is

そのままで

次は好きな動物の話。

 

夕陽に照らされたビルを見て、陽が沈むのを認識できるように

人は暗闇にいるとき、光を知っているのだと思う。

光を知らなければそこが闇だなんて知り得ないはずだ。

 

無条件に愛され、それが当たり前の環境で育ち、なんの劣等感も持たないような人生を歩んでみたかった。

愛されていなかったのかと聞かれれば答えは否で、なんなら与えられすぎていた時期もあった。きっと羨ましがられる立場にあったと思う。その立場から降りたときも、愛情が途切れることはなかった。

でも当時熱量が下がったことは理解できた。当人たちが「大人の事情」で闇雲に投げ出そうとしたことも。言葉なんていくらでも飾ることはできるけどそこに込められた愛情は一切誤魔化せない。トーンやそれっぽい行動で伝えたつもりだとしてもそんなのはガラス越しにマジックをしているようなものだ。ずるいなと思う。なめられていたんだなと思う。これくらいしておけば十分だろ、という声が今にも聞こえてきそうなほど。

 

話は逸れますが、生きていく上で年齢、性別、国籍、関係ないと思っています。対人関係である以上、人は皆平等で相手を尊敬し謙遜の気持ちを思って接する他ないからです。それがどんな関係であろうとも。言語・文化の違い、地位・学歴の差、、たとえ家族であったとしても、誰しもが他人であり尊重して接していくべきではないのかとずっと思っています。(これは個人の意見で、私は専門知識もない状態で思ったことをつらつら書いているので違ったらすみません。)先日、知人と思いやりの幅について話をしました。相手を馬鹿にしないこと、いかなるケースも想像して嫌な気持ちを持つ人を一人でも減らせるようにすること、思いやりに「幅」を持たせること、それは自分の想像力と経験、知識でまかなえるのではないかという話です。傷ついた人が優しくできるというのは、「自分が嫌な目にあったパターンを先読みして避けることができるということ=優しい」みたいな方程式がありますが(少なからず私の中には出来上がっています)それは当事者の経験・知識・思いやりから来るもので、相手が嫌な思いをするけどまあいいか。で完結する場合も考えられます。それでもほとんどの嫌な思いをした人は二次災害が起きないように、わざわざ思考を働かせて相手のために時間を割くのです。それが思いやりであり優しさだと思います。でも、嫌な思いをしていなくても想像すれば、相手のことを時間をかけて様々なケースを考えておけば、傷つけるなんてことはなくなるのではないかと思うのです。想像は自分の経験や知識からくると思うので、こうやって書くのは簡単でも実行するのはなかなか難しいですが、思いやりってそういうことじゃないのかなと一個人として思います。

 

書きたかったこと。それは、思いやる価値がないと思われたときが一番悲しくて苦しい闇じゃないかということ。それを与える側になりたくないということ。恋でも愛でも友情でも、相手のことを考える時間ほど輝かしいものはない。光があるなら影もある。暗闇に立ったと感じたとき、既に光を知っている。光を知っているならそこに向かって歩き出すだけでむしろ自分が発光したっていいのだ。なんだっていいけど、そこに立ち止まる必要はない。愛されなかったと感じるのは、何かと比較し初めて劣等感を持っただけで、比較する対象がなければそれは永遠に知り得なかった。比較したものに光を感じたなら模倣するなりなんなりすればいい。それだけだ。そして闇を作らないように自分の中でできることをやり尽くしていく。誰からも嫌われないようにとか傷つけたくないとか、人間果てし無くいるからそれは難しいかもしれないけど、自分なりに相手のことを考える。なんだか何かを信仰しているような感じになってしまったけど、これが今の感じていること全て。

書きすぎた。次は好きな動物の話でも。

 

 

28062019

 

ざんわ