as it is

そのままで

悔しくて。日々。

 

なんだか真っ当に生きようと同じ日々を繰り返してることが

ばからしく思えてきて。

世の中には楽して稼ぐ人だっているのに。

お金が全てじゃないとわかっていても

やっぱり生きていたらお金って必要じゃないですか。

 

完全に妬み嫉みなんですけど。

言うならば道徳とかけ離れた稼ぎ方を知って

道徳とかけ離れているのに、羨ましく思っちゃったんです。

お金に目が眩んで、生きていることの価値を

真っ当に生きることの美しさを、楽しさを、輝きを、忘れてしまったんです。

心と思考がちっぽけな自分に嫌気もさしたんです。

純粋に羨ましかった。例を出せば、会社員が1ヶ月いろんな葛藤を乗り越えて与えられる給料の数倍を、もっと楽な手法でもらっているように見えたので。

(人を自分のモノサシで測るのは良くないんですけど。)

その手法を取るにあたって、見えないところで努力しているのかもしれないけど

それでも非道徳的なやり方が道徳的に生きている人より

楽して生きてしま(っているようにみ)えるなんて…そりゃないぜ〜…って。

 

人生に何を求めるかでこの感情をコントロールできるのかなあ、と最近考えています。

簡単な話、稼いで心の安定を取りたいなら同じ手法で同じように稼げばいいし

道徳的に生きたいなら反面教師にして真っ当に生きることへの輝きに感動していればいいし。でもきっと私は両者とも取りたい欲張りなんだと思います。

真っ当に生きていながらもしっかり稼ぎたい。

文字にしたらなんて貪欲な。恥ずかしくなってきた。

(っていうかそもそも真っ当ってなんだ。)

でもそれって今の一般社会では、その人の思考や能力よりも

学歴や繋がりが色濃く関係してくるのが現状じゃないですか。

だから学歴を取るか、人脈を増やして繋がりを持つか、

…そうやって這い上がっていくしかない、のか。

 

他者と自分は全く切り離す必要があると思っていますが

時として、普段自分の中で律するために堪えている感情が

小学生が転んで泣き喚くみたいに、

段々と大きな声で力強く主張してきます。

もしかしたらその感情に従ってみてもいいのかもしれないけど

それは私のなりたい大人じゃないことに途中で気付きました。

 

自分の正しいに従って生きることは自分を救う。

それでもやっぱり悔しいのです。

 

29052019

ざんわ